【人生を懸けるということ・前半】

今年1年は「変化」の1年間でした。

「変化」が目まぐるしく、
自分自身もついていけないほどでした。

しかし、何事にも常に真剣に
向き合うようにしていきました。

向き合うことはとても苦しく、
辛いことがたくさんあります。

自分のことだけ考えればこんなに
傷つくこともないかもしれませんが、

相手と向き合えば向き合うほど
己の中に答えを発見し、
責任を感じずにはいられなくなります。

「一緒にいてくれてるだけでありがとう」

と自然に思えるようになりました。

悩むことも自分のことは1%、
逆に他人のことは99%になりました。

もともと自分のエゴでスタートした
人生だったのですが、、、、、笑。

人は変わるものです。

そして、楽しいとか幸せだとか
感じる瞬間も変わりました。

昔は、自分が成長した!と派手に
感じることができる体験に興奮を
感じていました。

高級品を購入したり、
世界中旅行にいったり、
派手な飲み方をしたり。

でも違いました。

経済的自由とか
時間的な自由とか
場所の自由とか

貧乏学生にとっては憧れてたはずの
世界がとてもなんだか空虚なもの
であると感じました。

1人でそんな自由勝ち得ても
誰とも分かち合っていないし、
ものすごく寂しい。

どんなに苦しくても周りの仲間と
同じ目標を目指して
「いくぜ!」って
切磋琢磨している時期の方が幸せだった。

どんなにお金なくても
ゴキブリが出そうな安い居酒屋で
友だちと語り合っている時間が幸せだった。

いままでの人生振り返ってみると
「あれって幸せだったよな」
って思う瞬間なんて、どんな幸福論にも
当てはまらないものばかりなんですよね。

保育園の運動会でおふくろが僕をおんぶ
して走ってたら大ゴケしてドンベに
なった瞬間とか、

兄貴と実家の庭でサッカーしてて
窓ガラス割って逃げ出した瞬間とか、

剣道の試合に負けて、チームメンバーと
一緒に泣いてた瞬間とか、

お金なさすぎて友だちに2000円借りて
朝まで飲んでリバースした瞬間とか、

池袋のジョナサンで友だちに説教されて
一目はばからず号泣した瞬間とか、

会社の総会サボって先輩とマクドナルドで
ハンバーガー食べてた瞬間とか、

もう、そんなんばっかなんですよね。

イケてる要素はゼロ。

でも、温かかったし、その瞬間にしか
感じられないことばかりでした。

何気ないのが許されているのって
本当に周りに守ってもらっている証拠
なんだと思います。

先日とある方のご紹介で
ベトナムのハノイのチャリティーイベントに
参加させていただきました。

バザーでたこ焼きを焼いたり、
綿菓子を作ったりしました。

素人が作ったものなので出来栄えはよく
なんですけどすごく現地の方々に喜んで
いただきました。

その後、子ども病院に寄付をしにいきました。

入院されている方は、ベトナム戦争の枯葉剤に
よって影響を受け育った農家の子どもたちです。

農家の子どもはお金がなく、
世帯月収が5,000円ほど。

しかし、明日手術を受けなければ1ヶ月以内に
死んでしまう状況でした。

1回12〜15万円かかる手術を受けれずに
何百人、何千人にも子どもが亡くなっています。

病院には必要な医療器具も全然足りてないし、
環境もよくない。

「お金なかったらしょうがないですけど、
 最期を見届けてください。。。」
という悲惨な状況で、

1人1人子どものお母さんにお金を渡して、
頭を下げながらお礼されるのを見て、

「どうすればいいんだ」
「どうすればこの問題が解決されるんだ」
「一体僕にこれから何ができるんだ?」

って胸が熱くなりました。

この子たちはその何気ない幸せを
切望しているのにかなわないかもしれない。

なんとかしないといけない、、、、、。

何か根本から解決するようなことを
1人の人間としてしなくてはならない。

そう感じました。

明日に続きます。

原田正文